1862年5月

1862年5月16日(文久2年4月7日)、孝明天皇は幕府老中が提出した10年後の攘夷決行を約束した誓書を公表します。朝廷に対する長州藩の働きかけもあって、世情は外国人排斥運動に傾いていき、幕府は非常に苦しい立場に追い詰められていきます。同時に、岩倉具視も和宮降嫁に尽力して幕府と朝廷の提携関係を強化しようとしたため、幕府寄りの立場と誤解され、日に日にその身が危うくなってきました。その身を潜めた岩倉の地に移り住むことが、目前に迫ってきました。

1868年4月

1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治天皇の勅命によって京都御所にしつらえられた紫宸殿の祭壇で三条実美により「五箇条の御誓文」が読み上げられる儀式が執行されました。明治新政府の基本原則となる五箇条の御誓文は由利公正や福岡孝弟、木戸孝允、岩倉具視らの議論により作成されたものです。中央政界で躍進する岩倉具視が、5ヶ月前までは岩倉村に起居していた旧宅を是非ご観覧下さい。

 

1872年3月

 岩倉使節団は1872年3月4日(明治5年1月25日)、最初の寄港地アメリカで大統領のグラントと会見します。欧米列強から強いカルチャーショックを受ける旅の始まりでした。
 サンフランシスコに滞在した際に撮影した岩倉具視と使節団メンバーの写真も対岳文庫にて展示しております。ぜひご覧ください。

1868年2月

 

20170201明治新政府は、大政奉還をしたとはいえ旧幕府の勢力も侮れず、また各勢力の寄り合い所帯でまだ一丸でなかったため、1868年2月2日(慶応4年1月9日)、岩倉具視によりリーダーシップを発揮できるよう、明治天皇から参議・議定に加えて副総裁の兼任を命じられます。この地で親交を深めた大久保利通をパートナーとして活躍する基盤となった旧宅を是非ご覧ください。

1867年1月

%e6%97%a7%e5%ae%85%e6%ad%a3%e9%9d%a2%e9%81%a0%e6%99%af_011867年1月3日(慶応3年12月9日)、御所へ参内した岩倉具視は王政復古の大号令案を明治天皇へ奏上します。岩倉具視らは新政府の人事を発表し、明治新政府が樹立されました。幽棲旧宅で過ごした期間に考えた政策が結実し、岩倉のこれまでの苦労が実った瞬間です。岩倉具視が明治維新に向けてさまざま施策を練り、志士たちと会合を重ねた旧宅でぜひ歴史の息吹を感じてみてください。

1862年12月

1838年12月14日(天保9年10月28日)、13歳になった岩倉具視は従五位下という官位をもらいました。この官位をもらうことは朝廷に仕える貴族としてのスタートラインに立ったという意味がありました。この後、1839年1月25日(天保9年12月11日)には元服して昇殿を許されます。この日から、想像も出来ない波乱万丈に満ちた岩倉具視の政治生活が始まります。岩倉村に幽棲し、不遇の身から後の雄飛を夢見て暮らした場所をぜひご覧ください。dscn0740

1862年11月

dsc_0050_001862年11月3日(文久2年9月12日)夜、岩倉具視の屋敷に、言われのない罪を列挙された上、「今日明日中に洛中を引き払わないと暗殺する」と書かれた投書が届けられます。身の危険を感じた具視は、非常な無念を感じつつ11月4日夜には西加茂にある霊源寺へ移り住みました。この事件をきっかけに具視は、後にこの旧宅へ移り住むことになります。無念を感じて落涙しつつ洛中を去った具視の思いを旧宅から感じてください。

1862年10月

10月22日(土)、石座神社で火祭りが行われます。この祭礼は松明を用いた神事で、朝神事と昼神事の2つに分かれて執り行われ、朝神事は午前2時30分から神事が行われ、3時に松明に点火、松明が燃え尽きる5時ごに大人神輿が神輿御旅所に向けて出発し、6時30分ごろに御旅所へ到着する。昼神事は14時ころに行列が御旅所を出発し、16時ころに神事が行われた後、拝殿前で岩倉踊が奉納されます。

 岩倉具視は岩倉村に移り住んですぐに石座神社へ参拝したことが日記(文久2年12月25日)にも見受けられ、しばしば参拝したと伝わります。また後には岩倉家から神社へ灯篭や田畑を寄進したと伝わっています。岩倉具視が参拝した石座神社は当施設から北へ徒歩約5分ほどのところにあります。当施設にご来場の際は是非石座神社にも立ち寄ってみてください。

1862年9月

1862(文久2)年9月9日にはに岩倉具視は、天皇の側近くで仕える職を失い、出家を命じられます。その後、霊源寺や西芳寺を経て、この岩倉の地に移り住みます。元は大工の家屋を買い取って、最初に移り住んだのが、この旧宅の附属屋です。幕末当時の岩倉具視がここで何を思い、後の雄飛を夢見たかに是非思いを馳せてご覧下さいませ。

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