掲載日:2018年11月02日

1862年11月3日(文久2年9月12日)、夜に岩倉具視の屋敷へ投書がありました。そこには岩倉を幕府と気脈を通じる奸族と決め付ける文言が記してあり、二、三日中に京都市中から出ないと命が無いと記されてありました。岩倉は早速、義父や妻、子供らに事情を話し、僧侶に身をやつし、叔父靖翁の手引きで霊源寺へと身を隠しました。この後、西芳寺、岩倉へと移り住み、都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非ご観覧ください。