掲載日:2020年05月01日

1867年5月24日(慶応3年4月21日)、十津川郷士・前田雅樂が一人の人物を連れて、旧宅に訪ねてきました。その人物の名前は石川清之助。彼は同郷の橋本鉄猪(大橋慎三)から岩倉具視の人柄を聞き、その人物を見極めにやって来ました。彼は岩倉と話して、その遠大な視野と大きな器量に心服し、意気投合します。彼は紹介した橋本鉄猪に、公家の中であれだけの人物を見たことがない、この人と出会えたことは天佑だと感謝します。石川清之助、本名は中岡慎太郎。こののち、岩倉と中岡は一致協力して倒幕に向かいます。

掲載日:2020年04月20日

1872年4月1日(明治5年4月1日)、岩倉具視は使節団の旅程でアメリカにいました。滞在しているワシントンでは気温が既に30度近くになっていて暑いくらいであることや、次男の具定がニューヨーク・サンフランシスコ間の移動の際に体調が悪くなったことなど、家族へ近況を報告します。また前年に行われた廃藩置県の影響で職種を変えることを余儀なくされた人々への心配りをするなど、海外にいても身近な人々への思いを胸に海外での使命を果たしていました。

掲載日:2020年03月01日

1867年3月13日(慶応3年2月8日)、薩摩藩の井上石見、藤井良節兄弟との繋がりが出来、第二次長州征伐後の薩摩藩の動向がつぶさに岩倉の耳に入って来るようになりました。岩倉は井上・藤井兄弟に意見書を託しますが、果たして西郷隆盛、大久保利通や小松帯刀らの目に留まるのかどうか。切なる願いがこの後の岩倉の命運を大きく変えて行くことになります。歴史の表舞台にあとわずかで復帰する日々を送った旧宅を是非ご覧下さい。

 

掲載日:2020年02月02日

1866年2月24日(慶応2年1月20日)、松尾相永から岩倉へ京都の情勢を知らせる手紙が届きます。長州征伐後の交渉を担当していた永井尚志が大坂へ戻った後、今後再度戦端が開かれるのではないかとして幕府も大坂で軍備を整えてつつあることや、宇治や黄檗近辺に備前藩が広く滞在していることなど、様々な噂が具視に知らされます。昨年秋から薩摩藩との繋がりが出来たとはいえ、まだまだ歴史の表舞台に出ることが出来ないことに、まんじりともせず状況の推移を見守って過ごした旧宅を是非ご覧下さい。

掲載日:2020年01月01日

1863年1月7日(文久2年11月18日)、岩倉具視が岩倉村へ移り住んで40日ほどが過ぎました。この日は家主と修繕の大工2人が夜になって訪ねて来ており、岩倉は話しながら共に杯を傾けました。彼らは子の刻(現在の午後11時から午前1時)まで滞在してましたが帰宅し、岩倉は一人になります。やはり不安になったのか、花園村の九兵衛に来てもらい、一晩逗留してもらう事を頼んでいます。不安に苛まれながらも希望を捨てなかった、岩倉具視が艱難を耐えた旧宅を是非ご観覧ください。