明治維新の立役者
岩倉具視 プロフィール

岩倉具視(いわくら・ともみ)は、文政8年(1825)に堀河康親(ほりかわ・やすちか)の次男として京都に生まれ、のちに天保9年(1838)に岩倉具慶(いわくら・ともやす)の養子となります。
 

安政元年(1854)に侍従(じじゅう)となり、幕末の動乱の中、孝明天皇(こうめいてんのう)の希望により通常は朝廷の政務に携われない下級公家からも意見を徴収するという改革によって、次第に朝廷内で台頭していきました。岩倉は公武合体派の立場から、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川第14代将軍の徳川家茂(とくがわ・いえもち)との婚姻を推進し、朝廷と徳川幕府との融和に尽力しました。
しかし、和宮と徳川家茂の婚姻を進めたことによって、過激な尊王攘夷派から佐幕派の人物と見られて命を狙われ、文久2年(1862)に辞官落飾して洛中を去って西加茂の霊源寺、ついで西芳寺に移り住み、後に岩倉村に藤屋藤五郎の廃屋を借りて幽棲しました。
 

元治元年の禁門の変後、岩倉の冤罪は証明されましたが、赦免はなく、引き続き岩倉村で暮らすことを余儀なくされます。しかし冤罪だったことで、再び人士が岩倉の周りに集うようになって政治活動を再開し、岩倉は時代の動向に対応して、これまでの公武合体派から倒幕派へと立場を変更しました。
 

慶応3年、徳川第15代将軍の徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)が大政奉還をするものの、徳川家が国内最大の所領や兵力を持ったままなので、引き続いて実質的に政治権力を握ることとなるので、岩倉は朝廷を政治の中心に据えるために、薩摩藩の大久保利通らと共に、徳川慶喜に辞官納地をさせる計画をすすめ、小御所において会議で王政復古を宣言して、徳川慶喜に辞官納地を通告し、徳川慶喜はこれに応諾したことによって王政復古が成立しました。
 

その後、岩倉は明治政府の首脳部の一人として、版籍奉還や廃藩置県などの重要法案の立案に携わり、岩倉使節団の海外巡遊の正使として重要な役割を果たしました。また明治14年(1881)には、東京に首都機能が移転したことで都市として衰退していた京都を復興させる目的から、京都において保勝会という団体を設立させ、摂津・河内・和泉・山城・大和・近江・丹後の名勝・古蹟を保存する運動にも携わり、とりわけ名所旧蹟の多い京都の復興にも尽力しました。
 

岩倉は明治16年(1883)、京都御所保存計画のために出身地の京都に来ている最中に咽頭癌が悪化し、東京へ戻ったものの回復せず、57歳(数え年で59歳)で亡くなりました。
 

*肖像画:国立国会図書館「近代日本人の肖像について」より