1868年7月

1868年7月27日(明治元年6月8日)、江戸城無血開城がなったもの、彰義隊が上野寛永寺に立てこもっており、まだ江戸市中には不穏な空気が漂っていました。。江戸滞在の三条実美から彰義隊討伐に成功した手紙が届くと、岩倉はこの日に三条へ手紙を出し、江戸へ下向した意味もこの一戦の勝利にあったと
これまでの心労を労います。幕末維新の最前線でもっとも尽力した公家の二人だからこそ分かち合える思いでした。三条との対立によって、不遇を囲った日々を過ごした旧宅を是非ご覧下さい。

1867年6月

1867年6月27日(慶応3年5月25日)、姉婿の中御門経之から手紙が届き、状況の悪化に伴って、とうとう朝敵の名を与えて幕府を打つしかない、もう岩倉村に潜んで暮らすのは止めて、各藩に大きく働きかけようではないか、といった内容が書かれていました。この春には岩倉も幕府はもう不要で、軍事も含めて朝廷で行うべきだとの見解にたどり着いていました。討幕の密勅の作成まであと少し、ついに天下の大変革の時が近づいています。一室から天下の構想をまとめた旧宅を是非ご観覧ください。

1867年5月

1867年5月29日(慶応3年4月26日)、水戸藩士の香川敬三から急ぎの便りが届きます。岩倉の手紙が薩摩藩へ渡されて、その返事が届いているとのことで、その書面は西郷吉之助の手に渡ったと伝わります。西郷からは、岩倉の意見は薩摩藩主へ取り次ぐ、世間では岩倉のことを疑惑のある人物だとしているが、書面を見てそうは思えないと感じ、藩主への取り次ぎは必ず請け合う、と言われとのことを踊る筆致で知らせてきています。岩倉と西郷、歴史を回転させる二人の接点がここで出来上がります。維新回天の日を夢見た、旧宅へぜひお越しください。

1867年4月

1867年4月26日(慶応3年3月22日)、第2次長州征伐が幕府側の事実上の敗北に終わり、小倉口の総督であった老中・小笠原長行が大坂に戻って罷免され、何やら虚説様々な風聞が岩倉具視の元にも聞こえてきだした。薩摩藩の動きが怪しいとみられたことや、会津藩が宇治や比叡山を要害として兵備を整えている、米沢藩が大津や草津へ兵士を派遣して細かく宿改めをしている、そのうち幕府が幼い天皇を交代させるのではないか、などなど。不安な時期ではあるけれども、こういう時こそ静謐を保って油断なく対応していこうと、同志の中山忠能へ手紙を送っています。明治維新までの苦しい道のりを耐え忍んだ旧宅を是非ご覧ください。

1866年3月

1866年3月17日(慶応2年2月1日)、長州藩の動きに対して、幕府は第2次長州征伐を行うことを決定したとのうわさが岩倉具視の耳に届いた。京都の町はどのような騒ぎになっているのか、この先の形勢を知りたいので近日中に岩倉の地にまで来てほしいと、松尾但馬に岩倉は連絡を取ります。2度目の長州征伐という大事件を前にして、岩倉は情報収集に勤しみます。今後の京都政界の趨勢を知るために、情報収集をして今後の対策を考えた旧宅を是非ご覧ください。

1866年2月

1866年2月8日(慶応元年12月23日)、この日、岩倉具視の次男・周丸はこの日に元服することが決まった。数え年15才。洛中から離れて約3年、この間も様々な政治的な動きがあり、第1次長州征伐が幕府側の勝利のうちに終了した。岩倉の耳にも、凱旋報告のために徳川家茂が上洛するとのうわさが聞こえてきた。友人であり、姉婿でもある中御門経之からの情報では、将軍は上洛するようだがまだ具体的な日程は決まっていないようだと知らせがあった。薩摩藩、近衛家、中川宮、それぞれの情報も岩倉の所へ届いています。岩倉の地に暮らしながら、次なる手立てを立てるために、洛中の情勢を逐次受け取り、思索の日々を過ごした旧宅を是非ご観覧ください。

1863年1月

1863年1月7日(文久2年11月18日)、雪が7寸(約21cm)も積もる日も日記には見え、この日も早朝から雪が降ってきています。岩倉の藤屋藤兵衛の借家で暮らし始めて約1ケ月。この日は家主の藤兵衛や、住むにあたって補修を担当した大工らにお礼の酒を送っています。先日来、侍女の槙山や家来たちが入れ替わりで泊まっていましたが、家来たちも訪ねては来るものの日帰りで丸太町富小路の岩倉邸へ帰ってしまうので、心細くなったのか、幼いころに里子に預けられた花園村の九兵衛に逗留してもらうことを依頼しています。明治維新までの苦難の生活はまだ始まったばかりです。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非皆様ご観覧ください。

 

1862年12月

1862年12月1日(文久2年10月10日)、霊源寺を出て岩倉村へ移り住んで3日目。前夜からの寒さに凍える生活に、同じ京都なのに北の方である上、山影に当たるから一層寒く感じるのかと岩倉具視は驚きます。この日は寒いはずで、初雪が見られたと岩倉の日記には記されています。つい、京都市内の岩倉家への手紙に心細さから和歌を記します。「とひもしつ とはれもしつゝ友かまの 跡たへはてゝ つもる雪哉」。ここから都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非皆様ご観覧ください。

 

1862年11月

1862年11月3日(文久2年9月12日)、夜に岩倉具視の屋敷へ投書がありました。そこには岩倉を幕府と気脈を通じる奸族と決め付ける文言が記してあり、二、三日中に京都市中から出ないと命が無いと記されてありました。岩倉は早速、義父や妻、子供らに事情を話し、僧侶に身をやつし、叔父靖翁の手引きで霊源寺へと身を隠しました。この後、西芳寺、岩倉へと移り住み、都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非ご観覧ください。

1825年10月

 1825年10月26日(文政8年9月15日)、堀河康親のもとに次男が誕生します。幼名を周丸(かねまる)といい、後に岩倉具慶のもとへ養子に出されて、名を具視と改めます。幕末維新の歴史に名を残す岩倉具視の誕生です。このときから57年の波乱の生涯が幕を開けます。

 一大転機となった、岩倉村での生活をどのような場所で過ごしていたか、旧宅で是非当時をしのんでご覧ください。