1862年12月

 1862年12月3日(文久2年10月23日)、岩倉具視が岩倉村に住み始めて2週間ほど経過した頃、養嗣子の具綱や侍女の槙山からの書状が到来します。具綱の書状には、叔母の洗子や長女増子からの和歌が記されていたり、屏風やその他の品が添えられていました。槙山からの書状には、京都市内の状況が記されており、夜間外出の禁止の通達が出されたことやその原因が辻斬りが横行していることなどが記されていました。今後の雄飛を期して様々な思いで過ごした旧宅を是非ご覧ください。

 

1862年11月

 1862(文久2年)11月1日、旧暦で12月21日に当たり、岩倉具視の生活も年の瀬の様相を呈してきます。この日は但馬屋長兵衛という商人が年末の請求に来たので止むを得ず面会したと日記にあります。11月5日(旧暦12月25日)には、不遇の過ぎる年から来る年に期待を掛けてのことでしょうか、石座神社に参詣しています。

 不遇の中、明日の希望を託して過ごした旧宅を、当時をしのんで是非御覧ください。

1862年10月

1862(文久2年)10月19日、岩倉村へ来て2ヶ月が過ぎた頃、妻・誠子が初めて見舞いとして岩倉村へやって来ます。誠子はこの日は一泊するとのことだったので、近所で世話をしてくれていた三四郎夫妻から餅などの頂き物などもあり、この日は久しぶりの心和む日だったのではないでしょうか。不遇の日々を過ごした旧宅を、幕末当時の岩倉具視がここで何を思い、後の雄飛を夢見たかに是非思いを馳せてご覧ください。

1862年9月

1862年9月13日(文久2年8月20日)、岩倉具視は、天皇の側近くで仕える職を失い、10月31日には出家を命じられます。その後、霊源寺や西芳寺を経て、この岩倉の地に移り住みます。元大工の家屋を買い取って、最初に移り住んだのが、この旧宅の附属屋です。幕末当時の岩倉具視がここで何を思い、後の雄飛を夢見たかに是非思いを馳せてご覧ください。

1867年7月

1867年7月26日(慶応3年6月25日)、晴天の中、早朝から才谷梅太郎と横山寛三と名乗る二人の武士が岩倉具視を訪ねてきます。この二人こそ、この年秋に行われる大政奉還の立役者である坂本龍馬と中岡慎太郎です。坂本と中岡は7月23日(6月22日)に大政奉還を基本方針とした王政復古を目標とする薩摩・土佐の盟約を成立させており、岩倉は旧宅で二人と会って、様々な話をしたと日記に記しています。歴史の舞台となった旧宅で、当時の息吹を感じてみてください。

 

1862年6月

1862年6月12日(文久2年5月15日)、岩倉具視は左近衛権中将に転任した。前年10月の和宮東下の功績によります。岩倉にとってのこの世の絶頂の瞬間です。しかし岩倉の明治以前の出世はここで止まり、この後、暗殺の予告を避けるために11月4日(9月13日)には洛中を出て、霊源寺、西芳寺と移り住み、ここ洛北岩倉へ辿り着くことになります。

 

1862年5月

1862年5月16日(文久2年4月7日)、孝明天皇は幕府老中が提出した10年後の攘夷決行を約束した誓書を公表します。朝廷に対する長州藩の働きかけもあって、世情は外国人排斥運動に傾いていき、幕府は非常に苦しい立場に追い詰められていきます。同時に、岩倉具視も和宮降嫁に尽力して幕府と朝廷の提携関係を強化しようとしたため、幕府寄りの立場と誤解され、日に日にその身が危うくなってきました。その身を潜めた岩倉の地に移り住むことが、目前に迫ってきました。

1868年4月

1868年4月6日(慶応4年3月14日)、明治天皇の勅命によって京都御所にしつらえられた紫宸殿の祭壇で三条実美により「五箇条の御誓文」が読み上げられる儀式が執行されました。明治新政府の基本原則となる五箇条の御誓文は由利公正や福岡孝弟、木戸孝允、岩倉具視らの議論により作成されたものです。中央政界で躍進する岩倉具視が、5ヶ月前までは岩倉村に起居していた旧宅を是非ご観覧下さい。

 

1872年3月

 岩倉使節団は1872年3月4日(明治5年1月25日)、最初の寄港地アメリカで大統領のグラントと会見します。欧米列強から強いカルチャーショックを受ける旅の始まりでした。
 サンフランシスコに滞在した際に撮影した岩倉具視と使節団メンバーの写真も対岳文庫にて展示しております。ぜひご覧ください。

1868年2月

 

20170201明治新政府は、大政奉還をしたとはいえ旧幕府の勢力も侮れず、また各勢力の寄り合い所帯でまだ一丸でなかったため、1868年2月2日(慶応4年1月9日)、岩倉具視によりリーダーシップを発揮できるよう、明治天皇から参議・議定に加えて副総裁の兼任を命じられます。この地で親交を深めた大久保利通をパートナーとして活躍する基盤となった旧宅を是非ご覧ください。