1863年1月

1863年1月7日(文久2年11月18日)、雪が7寸(約21cm)も積もる日も日記には見え、この日も早朝から雪が降ってきています。岩倉の藤屋藤兵衛の借家で暮らし始めて約1ケ月。この日は家主の藤兵衛や、住むにあたって補修を担当した大工らにお礼の酒を送っています。先日来、侍女の槙山や家来たちが入れ替わりで泊まっていましたが、家来たちも訪ねては来るものの日帰りで丸太町富小路の岩倉邸へ帰ってしまうので、心細くなったのか、幼いころに里子に預けられた花園村の九兵衛に逗留してもらうことを依頼しています。明治維新までの苦難の生活はまだ始まったばかりです。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非皆様ご観覧ください。

 

1862年12月

1862年12月1日(文久2年10月10日)、霊源寺を出て岩倉村へ移り住んで3日目。前夜からの寒さに凍える生活に、同じ京都なのに北の方である上、山影に当たるから一層寒く感じるのかと岩倉具視は驚きます。この日は寒いはずで、初雪が見られたと岩倉の日記には記されています。つい、京都市内の岩倉家への手紙に心細さから和歌を記します。「とひもしつ とはれもしつゝ友かまの 跡たへはてゝ つもる雪哉」。ここから都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非皆様ご観覧ください。

 

1862年11月

1862年11月3日(文久2年9月12日)、夜に岩倉具視の屋敷へ投書がありました。そこには岩倉を幕府と気脈を通じる奸族と決め付ける文言が記してあり、二、三日中に京都市中から出ないと命が無いと記されてありました。岩倉は早速、義父や妻、子供らに事情を話し、僧侶に身をやつし、叔父靖翁の手引きで霊源寺へと身を隠しました。この後、西芳寺、岩倉へと移り住み、都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非ご観覧ください。

1825年10月

 1825年10月26日(文政8年9月15日)、堀河康親のもとに次男が誕生します。幼名を周丸(かねまる)といい、後に岩倉具慶のもとへ養子に出されて、名を具視と改めます。幕末維新の歴史に名を残す岩倉具視の誕生です。このときから57年の波乱の生涯が幕を開けます。

 一大転機となった、岩倉村での生活をどのような場所で過ごしていたか、旧宅で是非当時をしのんでご覧ください。

 

1862年9月

1862年9月9日(文久2年8月16日)、岩倉具視は尊皇攘夷派の台頭によって立場が悪くなったことから、前月には近習を辞職したが、それでも追撃は止まず、三条実美らにより幕府に媚びへつらう「四奸二嬪」として弾劾を受けることとなります。ここにいたって岩倉は出家をして京都を出ることを余儀なくされます。ここから岩倉の政治的苦境が始まり、旧宅での艱難の日々が始まります。臥薪嘗胆の生活を過ごした、旧宅を是非ご観覧ください。

 

1867年7月

1867年7月26日(慶応3年6月25日)、晴天の中、早朝から坂本龍馬と中岡慎太郎が岩倉具視を訪ねてきます。二人は薩摩藩と土佐藩の同盟を成功させ、大政奉還工作に入るための下準備にこの地を訪れました。岩倉は旧宅で二人と会って、様々な話をしたと日記に記しています。歴史の舞台となった旧宅で、当時の息吹を感じてみてください。

1868年6月

1868年6月11日(明治元年閏4月21日)、日本ではじめて司法・行政・立法の三権分立が導入される政治機構の改編が行われた。岩倉具視は行政の中で輔相という国内行政全般と宮中の庶務全般を監督する役割に就任した。岩倉は就任早々に宮中改革を断行し、冗費節減や公家に学問をさせて新時代への対応を迫る改革を行った。新時代への構想を膨らませた旧宅での生活を是非旧宅でご堪能ください。

 

1883年5月

1883年5月25日(明治16年5月25日)、岩倉具視は京都御所保存計画のために京都へと向かいます。自分たちが良かれと思って行った明治維新の改革が京都にとっては経済的衰退をもたらしたため、京都復興策を何とか実現するための旅路でしたが、岩倉に残された時間はあとわずかでした。明治以後も京都を訪れた際には、岩倉地域の人びとと旧交を温めた旧宅を是非ご覧ください。

 

1858年4月

1858年4月27日(安政5年3月14日)、岩倉具視は八十八人の公卿たちと関白九条尚忠への抗議行動を起こした二日後、孝明天皇へ「神州万歳堅策」を提出しました。このなかで岩倉は条約には反対しつつも、その後の動静を見据えた献策を行います。この後、絶頂から転落しますが、再び雄飛する日を夢見た日々を過ごした旧宅を是非ゆっくりとご覧ください。

 

1883年7月

1883年7月20日(明治16年7月20日)、岩倉具視は死去します。死因は癌でした。59年の波乱万丈の生涯でした。死後、遺髪を岩倉村にある旧宅へ納め、石碑が建てられました。幕末の最も苦しかった時期に、その地域の人びとによって守り、育まれたことを大事に思ってのことでした。幕末から明治にかけて、地域の人びととの旧交を温めた旧宅を是非ご覧ください。

遺髪碑