1867年5月

1867年5月24日(慶応3年4月21日)、十津川郷士・前田雅樂が一人の人物を連れて、旧宅に訪ねてきました。その人物の名前は石川清之助。彼は同郷の橋本鉄猪(大橋慎三)から岩倉具視の人柄を聞き、その人物を見極めにやって来ました。彼は岩倉と話して、その遠大な視野と大きな器量に心服し、意気投合します。彼は紹介した橋本鉄猪に、公家の中であれだけの人物を見たことがない、この人と出会えたことは天佑だと感謝します。石川清之助、本名は中岡慎太郎。こののち、岩倉と中岡は一致協力して倒幕に向かいます。

1872年4月

1872年4月1日(明治5年4月1日)、岩倉具視は使節団の旅程でアメリカにいました。滞在しているワシントンでは気温が既に30度近くになっていて暑いくらいであることや、次男の具定がニューヨーク・サンフランシスコ間の移動の際に体調が悪くなったことなど、家族へ近況を報告します。また前年に行われた廃藩置県の影響で職種を変えることを余儀なくされた人々への心配りをするなど、海外にいても身近な人々への思いを胸に海外での使命を果たしていました。

1867年3月

1867年3月13日(慶応3年2月8日)、薩摩藩の井上石見、藤井良節兄弟との繋がりが出来、第二次長州征伐後の薩摩藩の動向がつぶさに岩倉の耳に入って来るようになりました。岩倉は井上・藤井兄弟に意見書を託しますが、果たして西郷隆盛、大久保利通や小松帯刀らの目に留まるのかどうか。切なる願いがこの後の岩倉の命運を大きく変えて行くことになります。歴史の表舞台にあとわずかで復帰する日々を送った旧宅を是非ご覧下さい。

 

1866年2月

1866年2月24日(慶応2年1月20日)、松尾相永から岩倉へ京都の情勢を知らせる手紙が届きます。長州征伐後の交渉を担当していた永井尚志が大坂へ戻った後、今後再度先端が開かれるのではないかとして幕府も大坂で軍備を整えてつつあることや、宇治や黄檗近辺に備前藩が広く滞在していることなど、様々な噂が具視に知らされます。昨年秋から薩摩藩との繋がりが出来たとはいえ、まだまだ歴史の表舞台に出ることが出来ないことに、まんじりともせず状況の推移を見守って過ごした旧宅を是非ご覧下さい。

1863年1月

1863年1月7日(文久2年11月18日)、岩倉具視が岩倉村へ移り住んで40日ほどが過ぎました。この日は家主と修繕の大工2人が夜になって訪ねて来ており、岩倉は話しながら共に杯を傾けました。彼らは子の刻(現在の午後11時から午前1時)まで滞在してましたが帰宅し、岩倉は一人になります。やはり不安になったのか、花園村の九兵衛に来てもらい、一晩逗留してもらう事を頼んでいます。不安に苛まれながらも希望を捨てなかった、岩倉具視が艱難を耐えた旧宅を是非ご観覧ください。

 

 

1862年12月

1862年12月7日(文久2年10月16日)、岩倉具視が岩倉村へ移り住んで7日目、家来の小野昇造が訪ねて来ました。この日は昇造が槙山からの手紙を携えてきました。槙山からは手紙と共に、失意のうちに岩倉村へ移り住んだ具視を力づけようと、槙山の実家のある膳所から送られてきた旬の鰻を添えての手紙でした。槙山は明治維新後、具視の後妻として迎えられます。岩倉具視が艱難を耐えた旧宅を是非ご観覧ください。

 

 

1862年11月

1862年11月3日(文久2年9月12日)、岩倉具視に、過激な尊王攘夷派による命の危険が迫ります。岩倉は剃髪して逃亡することを義父や妻、子供らに事情を説明しますが、義父・具慶はなかなか剃髪することを許しません。そうこうしているうちに叔父・靖翁が依頼通りにやって来、西加茂霊源寺へしばらく移り住む手筈が整ったと知らせて来ました。剃髪を済ませ、袈裟を借りて僧侶の姿に身をやつし、夜陰に紛れて霊源寺へと急ぎます。この後、西芳寺、岩倉へと移り住み、都合5年間の苦難の生活が始まります。遠い夜明けを夢見た旧宅を是非ご観覧ください。

1867年10月

1867年10月7日(慶応3年9月10日)
 武力倒幕に向けて薩摩藩と土佐藩の同盟「薩土盟約」を結び、中岡慎太郎は土佐藩の兵力を京都へ集結できるように板垣退助、片岡健吉らに働きかけ、いよいよその時が迫ってきました。しかし土佐藩参政・後藤象二郎は坂本龍馬らと共に大政奉還による平和裏の政権返上を働きかけることになったため、挙兵を急ぐ薩摩の西郷に不審を抱いて盟約を解消、土佐藩の兵力は大坂に留め置くことになります。薩摩・土佐の兵力結集による武力倒幕を考えていた岩倉に対し、中岡は土佐の急遽の路線変更を詫びる手紙を送ります。戦争による変革と平和裏による政権返上の、それぞれの勢力の抜きつ抜かれつの激しい競争の舞台となった旧宅を是非ご観覧下さい。

 

1862年9月

1862年9月1日(文久2年8月8日)
 和宮降嫁について三条実美らからの弾劾を受け、前月に近習の職を辞した岩倉具視。しばらくは自邸で慎んでいたところ、反対派から職を辞するだけでは生ぬるいという上奏文が提出され、周囲からの攻撃に気が滅入ってきます。長男・具綱からは、何事も済んでしまったことは仕方がないので、体を大事にして欲しいと慰められます。その後、岩倉村へ移り住み、和歌を詠み過ごしながら、復活の日を願って生活をした旧宅をぜひご覧下さい。

1868年8月

1868年8月7日(明治元年6月19日)、江戸へ下っている三条実美と、書面で岩倉は今後の方策を相談します。さまざまな問題についての相談がある中、三条と共に江戸に滞在している岩倉の次男・具定、三男・具経が総督として役に立っているかを心配しています。江戸から戻ってきた人があれこれ言っているけれども、岩倉は自分からも息子二人によく言い含めておくので、三条からもしかるべく取り計らって欲しいと依頼しています。岩倉にならい遺髪碑を建立した具定、具経も訪ねた旧宅を是非ご観覧下さい。

遺髪碑