1862年9月

1862年9月9日(文久2年8月16日)、岩倉具視は尊皇攘夷派の台頭によって立場が悪くなったことから、前月には近習を辞職したが、それでも追撃は止まず、三条実美らにより幕府に媚びへつらう「四奸二嬪」として弾劾を受けることとなります。ここにいたって岩倉は出家をして京都を出ることを余儀なくされます。ここから岩倉の政治的苦境が始まり、旧宅での艱難の日々が始まります。臥薪嘗胆の生活を過ごした、旧宅を是非ご観覧ください。

 

1867年7月

1867年7月26日(慶応3年6月25日)、晴天の中、早朝から坂本龍馬と中岡慎太郎が岩倉具視を訪ねてきます。二人は薩摩藩と土佐藩の同盟を成功させ、大政奉還工作に入るための下準備にこの地を訪れました。岩倉は旧宅で二人と会って、様々な話をしたと日記に記しています。歴史の舞台となった旧宅で、当時の息吹を感じてみてください。

1868年6月

1868年6月11日(明治元年閏4月21日)、日本ではじめて司法・行政・立法の三権分立が導入される政治機構の改編が行われた。岩倉具視は行政の中で輔相という国内行政全般と宮中の庶務全般を監督する役割に就任した。岩倉は就任早々に宮中改革を断行し、冗費節減や公家に学問をさせて新時代への対応を迫る改革を行った。新時代への構想を膨らませた旧宅での生活を是非旧宅でご堪能ください。

 

1883年5月

1883年5月25日(明治16年5月25日)、岩倉具視は京都御所保存計画のために京都へと向かいます。自分たちが良かれと思って行った明治維新の改革が京都にとっては経済的衰退をもたらしたため、京都復興策を何とか実現するための旅路でしたが、岩倉に残された時間はあとわずかでした。明治以後も京都を訪れた際には、岩倉地域の人びとと旧交を温めた旧宅を是非ご覧ください。

 

1858年4月

1858年4月27日(安政5年3月14日)、岩倉具視は八十八人の公卿たちと関白九条尚忠への抗議行動を起こした二日後、孝明天皇へ「神州万歳堅策」を提出しました。このなかで岩倉は条約には反対しつつも、その後の動静を見据えた献策を行います。この後、絶頂から転落しますが、再び雄飛する日を夢見た日々を過ごした旧宅を是非ゆっくりとご覧ください。

 

1883年7月

1883年7月20日(明治16年7月20日)、岩倉具視は死去します。死因は癌でした。59年の波乱万丈の生涯でした。死後、遺髪を岩倉村にある旧宅へ納め、石碑が建てられました。幕末の最も苦しかった時期に、その地域の人びとによって守り、育まれたことを大事に思ってのことでした。幕末から明治にかけて、地域の人びととの旧交を温めた旧宅を是非ご覧ください。

遺髪碑

 

1862年3月

1862年3月11日(文久2年2月11日)、岩倉具視は前年の和宮降嫁の際に、将軍徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功したことに対して、孝明天皇から直々にその功労を労われます。この後、和宮降嫁の是非を巡って、逼塞することになろうとは夢にも思っていませんでした。得意の絶頂から転落して、再び雄飛する日を夢見た旧宅を是非ご覧ください。

1863年2月

1863年2月1日(文久2年12月25日)、岩倉村へ岩倉具視が移り住んで約二ヶ月が過ぎるころ、やっと生活や気分も落ち着いてきたのか、外出もするようになり、この日は八所大明神、十二所大明神に朝早くから参詣しています。この二つの神社は現在の石座神社にあたります。身の危険を感じつつ、雌伏の時を過ごした岩倉具視の様子を、是非旧宅で体感してください。

 

1863年1月

1863年1月2日(文久2年11月13日)、岩倉村へ岩倉具視が移り住んで約一ヶ月が過ぎた頃、侍女の槙山と三女・極姫が訪ねて来ました。極姫は後の戸田極子となる人物で、「鹿鳴館の花」と言われるほどの容色の女性です。母は後に岩倉の後妻となる侍女の槙山で、極姫はこの時まだわずか五歳でしたが、母に伴われての訪問でした。岩倉はこの母譲りの美しい姫を特に愛したと伝わっており、二人はこの時岩倉村へ二泊して、親子水入らずの時間を過ごしました。風雪に耐えながら幸せなひと時を過ごした岩倉具視の様子を、是非旧宅で体感してください。

1862年12月

 1862年12月3日(文久2年10月23日)、岩倉具視が岩倉村に住み始めて2週間ほど経過した頃、養嗣子の具綱や侍女の槙山からの書状が到来します。具綱の書状には、叔母の洗子や長女増子からの和歌が記されていたり、屏風やその他の品が添えられていました。槙山からの書状には、京都市内の状況が記されており、夜間外出の禁止の通達が出されたことやその原因が辻斬りが横行していることなどが記されていました。今後の雄飛を期して様々な思いで過ごした旧宅を是非ご覧ください。